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Intimacy with yourself   アジャシャンティ的な何か。

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~Radio Adyashanti と オンラインコースの感想を中心に~

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とても美しい文章なので、訳してみました。



目覚めのプロセスには二つの側面、あるいは次元があります。一つは、あなたそのものである内側の源(Source)を見つけること。次にそれを人生にもっともっと取り入れていくことです。あなたの日々の生活に静寂(Stillness)が散りばめられるように。あなたの人生のいたるところに静寂が点在するようになると、エゴはだんだん消えていきます。あなたは、新しいエネルギー・フィールドを具現化するようになります――まるでもう一つの次元から何者かがあなたを通してこの世界に現れるかのように。

もっとも重要なのは、私がときどき口にする「目覚めた行動」のための基礎を作ることです。この世界は行動する人々にあふれていますが、そのほとんどは無意識の行動です。不幸せな状態から起こり、より不幸せな状態を作り出します。われわれの最初の仕事はその次元、もう一つの次元をこの世界に運び込むことです。普通の日常生活において、誰かの話を聞くこと、ここからむこうへ歩いていくことなどの瑣末なできごとのなかにPresenceが流れ込んでいくことが可能かどうか、試してみてください。Presenceは、スピリチュアルな練習として、「今」この瞬間に「今」がとる姿形と調和し、それが何だろうとあるがままに受け入れることを意味します。あなたが「今」の取る形と調和すればするほど、よりたくさんのエネルギーがやってきます。

 日常生活において、Presenceに根ざしていることは不可欠です。基礎になるのは「今」をあるがままに受けいれ続けること(continuous acceptance of the is-ness of Now)です。それによって、Presence はもっともっと確固たるものになります。あなたはいうなれば今この瞬間を教師として学ぶのです。今に「イエス」と言いましょう。そうすればPresenceはやってきます。最初は、世界の状況などではなく、自分に身近な日常に限定して、事物をあるがままに受け入れていくことを始めてみましょう。しばらくすると、Presence にはもうひとつの側面があることに気づくでしょう。Presenceには、ただ静止しているだけでなく、とても動的な側面もあるのです。そここそが「目覚めた行動」がやってくる場所です。
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by suna-tuki-mori | 2011-03-28 21:21
 この世界は、私たちを満足させるためにではなく、チャレンジしてくるようできています。私たちがより深みに至るために。いったんそれを知り、受け容れるならば、すべてのチャレンジを歓迎することができるようになります。すべての喪失を、たとえ涙を流すことがあっても、迎え入れることができるのです。なぜなら、喪失というものが、たとえそれがどのようなかたちをとろうとも、いかに大切なものでもあるかということに気づくからです。
 何かかたちあるものがあなたの人生から取り去られたとき、あとには何もない空間が残されます。たとえばあなたの身近な人が亡くなったとき、そこには突如として空っぽの場所が出現します。それはかたちの世界の視点からみると、とても痛ましいできごとで、あなたは泣き悲しむでしょう。なぜならそれがかたちの世界の現実だからです。しかしそこにはまたかたちのない世界のより深い現実も存在します。そしてもしあなたがその両方と共にとどまれるならば、死という現実を目の前にしてもなお、心の深い場所で安らかな気持ちを感じることができるでしょう。
 なぜなら、後に残された空間から、かたちのない世界の光が輝き出すからです。すべての喪失は、恩寵を内包しています。それは亡くなった人の本質でもあり、何ものにも決して破壊されることはないのです。

Eckhart Tolle TV 2010年2月のトピックス “ラルフ・ウォルド・エマソンのEssays“ より
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by suna-tuki-mori | 2011-03-23 22:49
この瞬間に何か起こっていようと、どんな状態であろうと、それは生きることの「ありのままさ」の一部であり、それをまるごと受け容れることで、あなたは命そのものの広大な力の表れとなる。真の叡智は、あなたが今この瞬間の持つ力をさえぎることを止めたとき、初めて現れる。

エックハルト・トール
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by suna-tuki-mori | 2011-03-22 21:44
2012年の話がなかなか更新できないままつなぎのように書いております・・・・・・
ああ、このままではもうすぐ10月のトピックスが配信されてしまう・・・・・・
ところで最近ルドルフ・シュタイナーの講演録を読んでいます。仕事でキリストと十二使徒のヨハネのことを調べていて、その関係で高橋巌さん訳のシュタイナーコレクション(筑摩書房)の「イエスを語る」という巻を読んだのがきっかけ。

イエスを語る (シュタイナーコレクション)

ルドルフ シュタイナー / 筑摩書房


いやはや、ぶっとびました。面白すぎます。しばらくはまりそう。
キリストの出現にこのような深い意味があったとは・・・・・・(どのような?って聞かないでね。一言ではとてもとても・・・・・・)

そうしたら、今、あるヒーラーさんの「オーラクラス」というワークショップを受講しているのですが、そちらでもシュタイナーの名前が出てきました。
うーん、やはりつながっています。
ただし、個人的興味が先行し、仕事のほうには当分生かせそうもありません(涙)。

たぶんエゴでいっぱいになっているせいで、クリエイティブなアイデアを鉄板のようにはね返しているのでしょうね。うーんんんんん。
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by suna-tuki-mori | 2010-09-24 23:06
弱くあるためには、十分に強くなければならない(3)

実践してみよう!

あなたが、なにかの障害に対して、厳格なやり方で対処しているとき、そのことを認識しよう。厳しくしようという衝動があるときには柔和であろうとしてみよう。けちけちしたいと感じたら、気前よくしてみよう。感情を遮断したり、閉ざしてしまいたい衝動にかられたときに、開かれた心でいてみよう。もし悲しみや嘆きを感じたら、その感情をそこにをあるがままにしておこう。なんであれ自分がそのときに感じているものを感じることを自分自身に許そう。泣くことや、傷ついた気持ちになることに対して自分がどんなラベルを貼っているのか気づいてみよう。そしてそれらのラベルを手放そう。いま感じていることをただ感じて、瞬間瞬間の気づきを育て、「上昇」と「下降」、「善」と「悪」、「弱さ」と「強さ」の波に身を任せよう――それらはいずれも、あなたの経験していることを完全に表現するには不十分であるということに気づくまで。経験そのものとともにあろう。すべての力のなかでも、あなたの一番深いところにある力を信頼しよう。つまり、そこにあるということの力、目覚めているということの力を。

(この項終わり)
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by suna-tuki-mori | 2009-04-13 17:38
弱くあるためには、十分に強くなければならない(2)

 だから、もしあなたが自分で、瞑想の経験に基づいて、不死身さとか、力強さとか、特別な知識、あるいは賢明さ、というようなイメージを自分が築き上げていることに気づいたら、また瞑想を行っている最中に、どこかに到達しようと考えていることに気づいたら、また瞑想について得意げに語り始めていることに気づいたら、そうした自分の心的傾向にこそ、気づきを導きいれることです。
 そして自分に尋ねてみるのです。もしかして、自分の傷つきやすい部分や、長いこと引きずっている悲しみや、何かの恐れから、逃げようとしているのではないか、と。もしあなたが本当に強ければ、そのことを自分自身や他人に強調してみせる必要があるはずはないのです。一番よいのは、すっかり方針を変え、自分が何を見ることを一番おそれているのか、ということに注意をむけてみることです。それを可能にするためには、自分自身に、感じること、ときには泣くことを、許してあげなければいけません。それから、すべてのものごとについて意見をもつ必要はないこと、そして他人の目に、強靭で、感情に振り回されない人間だと映る必要はないことも認めてあげましょう。そしてかわりに、自分の感情と常につながり、それらの感情に対して適正に開かれていることを自分に許しましょう。弱さのように見えるところは、実はあなたの力が眠っているところです。あたかも力強さのように見えるところは、多くの場合、恐怖を覆い隠そうとする試みに過ぎない、あなたの弱さなのです。それは、どんなにほかの人々に対して、あるいは自分自身に対してほんものらしく見えたとしても、実際は演技、またはみせかけに過ぎないのです。(つづく)
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by suna-tuki-mori | 2009-04-02 13:08
WHEREVER YOU GO, THERE YOU ARE
Mindfulness Meditation in Everyday Life
BY JON KABAT-ZINNより

You Have to Be Strong Enough to Be Weak
弱くあるためには十分に強くなければならない(1)

 もしあなたが強い意志を持って、何かを成し遂げた人であるなら、あなたは往々にして不適格であるとか、不安であるとか、傷つくとかいったこととは無縁であるような印象を人に与えているかもしれません。しかしそれはとても孤立した状態で、最終的に自分にも他人にも大きな痛みを引き起こします。ほかの人々は喜んでこの印象を受け入れ、みんなしてあなたに「ジブラルタルの岩」(頼もしい人、頼りになるもの)というペルソナ(仮面)を投影するでしょう。でもその仮面は、あなたを、自分のリアルな感情を持つことから遠ざけてしまいます。
実際、そうした保護膜のもつイメージやオーラに酔っているうちに、その後ろにかくれた自分自身の真の感情は、簡単にわからなくなってしまうのです。こうした孤立状態は、核家族の父親たちや、比較的地位のある人々には非常によく起こります。
 瞑想の実践を通して自分を強くしようと思うことは、同様のジレンマを引き起こします。あなたは、完璧に傷のない、正しい瞑想者という役割を信じ、それを実演し始めます。つまり、すべてを自分のコントロールの下に置き、反応としての感情に巻き込まれることなくすべてのことに対処できるほどに賢明な人、という役割を。こうした過程において、あなたは自分自身でも気がつかないうちに、自分の成長を阻止するることになるのです。私たちは誰でも、感情をもっています。そこから自分を隔離してしまうことは、自分自身を危険にさらすことになるのです。(つづく)





 
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by suna-tuki-mori | 2009-04-01 22:11
ひきつづき、Everyday Blessings by Jon & Myla Kabat-zinnより

Part Four   Mindfulness: A Way of Seeing
An Eighteen-Year Retreat

18年間のリトリート

 ジョン・カバットジンはこの項の最初でこう述べています。
 
「私たちがよりよい育児をし、自分たちも成長するために、子どもたちをちいさなブッダまたはちいさな禅のマスターとして見ることがとても役に立つのと同様、私(ジョン)は育児というのは長期間にわたるリトリート(人里はなれた場所などに集まって行う瞑想・修行などの会)と見なしてもよいのではないかとしばしば感じる。家族のなかにあって、子どもと親の両方に深遠で継続的な恩恵をもたらす、ある種の深くてとても凝縮された内的なワークを行う機会だ」

そしてその項の最後をこうむすんでいます。

「家庭生活の日々のスケジュールはもちろん、リトリートよりはるかに複雑で混沌としている。先頭に立って仕切る指導者は、たいていの場合子どもたちだ。彼らの変化や成長にともなってそれらの内容も変わる。ときには日替わりで、ときには瞬間瞬間で変化する。
 でも、Practice(実践・練習)はいつも同じだ。すなわち、完全にそこに在ること、出来事や、その出来事の経験に対して、裁いたり非難したりすることなく、深く見つめること。
 ただ在ること(to be fully present)、適切な行動、(appropriate action)、一瞬一瞬(moment by moment)。
 それらは、一日のうちの都合のよい時間に正式な練習(マインドフルネス瞑想)を行うことによって、よりしっかりと自分のなかに根付くだろう。しかし、必要不可欠なのは、確固たる意志を持って日常生活でマインドフルネスを育て、育児があなたに求めることに応え、それぞれの日が、またそれぞれの瞬間が私たちに気づきを深める機会を与えてくれることを受け入れることだ。
 そのようにして、朝起きることは「起床瞑想」になる。歯を磨くことは、「歯磨き瞑想」になり、赤ちゃんが泣いていて歯を磨くことができないことは、「歯磨きができないけど赤ちゃんの世話を先にしよう瞑想」になる。子どもに服を着せ、食卓をととのえ、学校に送り、仕事に行き、おしめを替え、買い物をし、いろいろな手配をし、掃除をし、料理すること、そうしたひとつひとつが全部、私たちのマインドフルネスの実践なのだ。全部が」
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by suna-tuki-mori | 2009-03-23 09:15
Losing it

失う (4)

 もし関係に癒しをもたらし、ここから何かを学ぶことを望むのなら、起こったできごとを認めず吟味もせずそのままにするのではなく、私が自分の行動に対する後悔と彼女の感情に対する配慮を示してやることは、私たち双方にとって、大変大切なことです。
 私はそうすることで、それを彼女のせいにしたり、大したことじゃなかったんだと思いこもうとするのではなく、起こった出来事の大きさを認識できます。
 次の日、出来事に距離をおいて考えられるようになれば、実際に何が起きていたか、そしてそのときどのように感じていたかということを話し合うこともできます。
 
 (親子間の)約束事をもう一度見直し、あらかじめ同意事項を作っておくことが役立つこともあります。この事件があってから、私たちは、お互いの注意をひきつけるような「合図」を決めて、何かまずいことが起こりそうだと感じたときには方向転換をするチャンスがもてるようにしました。
 望むらくは、このような小事件が起こるたびに、それを再び繰り返すことがないように、何か学ぶようにできるといいと思います。

 嵐のまっただ中にあるとき、一瞬立ち止まって、呼吸に気づきを導き入れ、そして必ずしもその瞬間に何かを解決する必要はないんだ、という許可を自分に与えることができれば、それは助けになるでしょう。
 In midst of the storm, it helps if we can stop for a moment, bring awareness to our breathing, and give ourselves permission to not necessarily have to solve anything in that moment.
 そうすることによって、コントロール不可能な自分の怒りに反応し、火に油を注ぐような状態になることも避けられます。
 怒りに自分を見失うことは恐ろしいことではありますが、起こったことを否定したり、過小評価せず、自分自身や子どもを責めることで無駄なエネルギーを浪費することもなく、自分の行動に責任をとらないでおいて、あんなことは起こらなければ良かったのに、とただ願うこともしないで、しっかり認識するならば、それを学びと成長の機会に変えることができます。
 それと同時に、年齢にもよりますが、子どもたちにそのできごとに対して彼ら自身が果たした役割を考えさせ、もっと効果的に自分の感情を表現するための戦略をたてることを助けることも必要です。彼らが困難な状況におかれたときに、違う選択肢を見つけることができるように。

(この項終り)
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by suna-tuki-mori | 2009-03-22 21:33
Losing it

失う(3)

 私は彼女に氷とタオルを運び、一緒に泣きました。お母さんのしたことはとてもひどいことで、あなたを傷つけてしまったことをとても悲しんでいる、と言いました。1時間くらいたって、むすめは私に抱きついて眠りました。
 私はひどい気分のままずっと眠れずに横たわっていました。なんというお休みなさいの時間だったことでしょう。

 こんな、ぞっとするような出来事であっても、たいていの場合は、次に同じようなことが起こったときにもっとうまくやり過ごせるための「何か」を学べるものです。
 私は自分に問いかけをすることから始めます。
 子どもが眠りに移行する過程を、もっとスムーズにしてあげる方法はなかっただろうか?
 ものごとを悪化させないために、自分の怒りやフラストレーションにどのように働きかけることができるだろう?

 子どもはひとりひとり、あまりにも違います。毎晩眠りにつくことが困難で、しかも起きるのもまた難しい子もいれば、お休みの子守歌やお話で十分な子もいます。
 時にはどんなことをしても、最悪の事態にむかっていくしかないような時もあります。その夜、暖炉のそばで読み聞かせをし、子どものベッドにすわって絵を描くことから始まったお休みの儀式は、みじめさの集合体のような結果に終わりました。もと違ったやり方があったでしょうか? 答えは明白なときもありますが、この状況では、まったくわかりませんでした。
ときどき、こうした夜の嵐は不可避で、それがそれ自身をまっとうし、気がすむまで吹き渡るのを待つしかないように思えることもあります。(つづく)
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by suna-tuki-mori | 2009-03-21 22:01